岡部氏との会話の経緯、及び今後の発言の方針検討

ツイッタ―で岡部さんという方に質問などをしていたら、「長い、端的に書け」と怒られてしまった。

その反省も込めて、これまでの会話の経緯とこれからツイッタ―に書き込もうと考えていることを、一端ブログに書き連ねる(ここに書いたものをいったん整理して纏めた後で、ツイッタ―のほうに書き込む予定)。

※今回の記述は、まとめやツイッタ―でのやり取りに対する私の主観に基づいて書かれたものだ。
 よって私の勘違いなどで、もとの発言者の趣旨とは異なる記述をしてしまっている可能性もあるので、その点は留意されたい
 ――って、誰も見ていないようなこんなブログで、予防線張る行為ほどむなしいものはないな。



質問を行うまでの、私の中での経緯

私と岡部氏のやりとり(もしかしたら私が一方的に突っかかっているように見えているのかもしれないが)の発端は、私が岡部氏に質問を行ったことだ。

だがその質問を行おうとした理由は、岡部氏と夏井氏のやりとりについてのまとめを読んだためである*1

児童ポルノ規制について、岡部さんと夏井のやりとり - Togetter

この中で岡部氏は、『児童性愛のポルノコンテンツは厳しく規制すべきものである、という世界的な潮流』が存在すると主張する。氏によればその潮流は、『児童性愛者が公の場所で大手を振ってその性的対象となる児童をバーチャルであっても具現化し描写する行為を忌み嫌う』ものであり、この潮流に則した形で法整備(=二次元も含めた児童ポルノ規制)は進められている。

対する夏井氏はそれが『行き過ぎた不当な押しつけ』であり、『嫌悪し、遠ざけるのは結構。奪ってはならない。』と主張する。

これに対する岡部氏の反論は、ペドフェリアを『絶対に許容しないと不快感をもつ層がこれだけ多いので世界的な規制が現実に起こっており、不当とは言いにくい』,『現実に児童ポルノがこれだけ嫌悪され排除傾向にあるという社会的合意は厳然とある』というモノだ。

岡部氏によればこのペドフェリアに対する憎悪,排除の流れは一つの正しさとなっていて、ゆえに少数意見の尊重,フィクションの不可侵性という夏井氏の主張する別の正しさと『価値観の綱引き』『二律背反』の関係になっている。

この関係については夏井氏も『「綱引き」だと考えて下さる方が一人でも多くいれば、それなりに議論が成立しますし、合意点を探ることもできると思います。』と言っていて、ここまでについては両氏の議論は噛みあっているように私には読めた。

ゆえに両氏が食い違うのは、この『綱引き』のやり方であるように思える。

夏井氏は上述した『それなりに議論が成立しますし、合意点を探ることもできると思います。』のように、『議論』し『合意点を探る』ことがこの綱引きのやり方であると考えているように読める。だが対する岡部氏は、『「どちらが論理的に正しいか?」ということではなく、どちらの価値観を優位に置くか?という投票行為、コンセンサスの醸成』としてこの綱引きは行われ、だから『後者の潮流(ペドフェリア嫌悪による規制)が我が国でも押し切るという事象』のように世界各国ですでに決着は付いている、と考えているように思われる。

夏井氏はこの岡部氏の考えについて、『「世界各国の潮流、コンセンサス」に懐疑的』であり、『多数派の感覚が常に正しいとは限らない』と反論する。

対して『「レイシズムは悪」とか「検閲は悪」とかそういう絶対的価値観ではありえなくて、その時代の大多数のコンセンサス、「時代がそうだから」っていうしかないんだよ。』と考える岡部氏は、『「正しいのか?」という疑念についても、その時代の正義とは、価値観の綱引きの結果にすぎず、それはマジョリティのコンセンサスに過ぎない』と再反論する。

この綱引きのやり方(=議論のやり方)に一致をみないまま、両者のやりとりは物別れという形で終わっている。



このやりとりを見た私の感想は、「もったいない」というものだった。
児童ポルノ規制についての賛成派と反対派が、罵り合いでなくきちんとした議論を試みようとしていたのだ。是非とも物別れに終わらせず、噛み合った議論を続けてもらいたい。そうすればもしかしたら両者の間で何らかの合意が形成される可能性だってある。
とはいえ上述の『綱引きのやり方』に一致を見ないままでは、この噛み合った議論は行えそうにないようにも思われた。

同時に私個人としては、『綱引きのやり方』については夏井氏のやり方が正当であるように思われた(これは、日常生活などで私の価値感が少数派として扱われる場合が多いことの影響だろう)。ゆえに私は、岡部氏が『綱引きのやり方』を再考する余地は無いかどうか考えてみることにした……それに成功すればもしかしたら両者の議論の再開も望めるのではないか、などという勝手な期待を抱きながら。


・初めのやりとり
まず岡部氏に確認したかったのが、氏の「正しさ」とは何を意味するのかだ。
岡部氏は『憎悪,排除の流れ』と『少数意見の尊重』の双方に正当性があるというが、私にはこの『憎悪,排除』の理論がよく分からなかった(だが、理解したいとは思っていた)。

そこで
『「本能的嫌悪感、危惧感をもつ人々の排除の情熱」が持つ「正当性」は、そのような人々の「嫌悪と排除の情熱が強烈だ」という現在の状況にのみ依存する、という意味なのでしょうか。』

と尋ねてみた。
これに対する岡部氏の答えは、『前者(規制反対派)の情熱と同じくらい後者(規制推進派)の情熱も強い』というものだ。
そこで情熱が強ければどんな主張でも、例えば「韓国人に対する嫌悪感」「同性愛者に対する嫌悪感」にもそれを排除する正当性があるのかを尋ね、その正当性が『次代(時代?)とベクトル』に由来する、とのお答えを頂いた。

そこで一歩踏み込んで、

ということは、(この質問はあくまでも仮定の話として、「実際にそうなる可能性」の高さとは関係なくお聞きしたいのですが) もしこれからベクトルが変化して、何年後かに「ペドフェリアに対する排除傾向」が緩和され、逆に「同性愛者に対する嫌悪感」が大きく醸成された場合
あるいはSF的な仮定も許容するとすれば、「同性愛者に対する嫌悪感」が人々の間で強く共有されてい多様な時代にタイムスリップでもしてしまった場合、
岡部さんとしてはその時代のベクトルから、今度は「ペドフェリア」を容認すべきものとして、「同性愛者」を排除,強制すべきものとして区別するよう意見を変更する、ということでしょうか。

と、仮定を含めて問うてみた。
これに対して岡部さんからは、
『大風呂敷を広げれば、性的マイノリティへの理解やペド嫌悪(児童保護)は、霊的進化のベクトルに一致すると思う』とした上で『その一方向ベクトルを認識しているのでそれはありえません。』とお答えいただいた。

このお答えによって、私は彼との合致点が見出せたような気がした。

夏井氏とのやりとりで岡部氏は『「正しいのか?」という疑念についても、その時代の正義とは、価値観の綱引きの結果にすぎず、それはマジョリティのコンセンサスに過ぎない』と言っていたが、その岡部氏自身が『マジョリティのコンセンサスに過ぎない』のではなく、論理的に正しいと『認識している』『一方向ベクトル』の存在に言及された――ように思えたからだ。
ならば彼が正しいと考えるベクトルについて、本当に正しいのかどうかを検証する――つまり夏井氏が提案していた『合意点を探る』という行為を行うことも可能となるはずである(この合意点を探る議論は、当然潮流やコンセンサスとは切り離されて行われるもののはずだ。潮流,コンセンサス自体が誤りであった事例は歴史上いくらでもある(たとえば国家社会主義独逸労働者党政権はワイマール憲法下で国民のコンセンサスを得て成立したものだし、『人類の政治体制は「資本主義→共産主義」という一方向のベクトルに進んでいる』という考えが世界中の多くの人々に信じられていたのは、半世紀も前の話ではない)し、それに岡部氏自身からも、「たとえ未来に同性愛者排除というコンセンサスがあっても同性愛者を差別するつもりがない」というお答えを戴いているためだ)。


・二回目の発言と回答
そのような考えから、私が再度した質問が下記である。

この「それでいいと思ってる」というのはあくまでも岡部さんとしてはそう思ってる、ということですよね。 いえもしかしたら多くの人にはそう見えているのかもしれませんが、おそらく規制反対派の人はそれでいいと思っていないわけで。
だから【岡部さんに見えている「人類総体が向かっているモノ」】を『自明で正しい大前提』として会話を進めると、それを前提と認めていない方とのやりとりは噛み合わないものになってしまう。
昨日の岡部さんと夏井さんのやりとりが微妙に食い違っていたのも、このあたりにあるのではないでしょうか。
その上で、今までのお二人の話を整理すると、 岡部さんは ①言論、思想の自由を大切にしたいという考え ②二次元児童ポルノを嫌悪し、排除したいという考え という二つの背反する考えが存在し、
対する夏井さんは、 「②」によって「①」が制限されるのはおかしい、と考えている。
よって争点になるのは、 【「②二次元児童ポルノを嫌悪し、排除したいという考え」 に 「①言論、思想の自由を大切にしたいという考え」 を侵すだけの価値があるのかどうか】、 ということだと思います。
『世界中でそういうコンセンサス(=合意、の意味ですね)が成り立っているから』 言い換えれば『みんながそうしているからそうなんだろう』という酷く他人任せなものに思えた点(この点は私が誤読していた部分もあるようですが)
ということは、「世界のみんながそう思っているから」とは別に『「①言論、思想の自由」を規制してでも「②二次元児童ポルノの排除」の実現を行うべきだ』と岡部さん自身が考える理由があるわけですよね。
とすれば、「加齢臭など個人レベルの(すなわち嫌悪感を抱いた各個人が我慢すべき)、嫌悪と排除の情熱」と「児童ポルノに対する嫌悪と排除の情熱」を区分し、この情熱による「言論、思想の自由」の規制を正当化する(と岡部さんが考える)モノとはいったいなんなんでしょう。


うん、長いです。しかもそのせいで、聞きたいことの焦点がぶれてしまっている。

案の定岡部さんにも誤解されたようで、僕が『岡部さんに見えている「人類総体が向かっているモノ」』と考えたものについて、『僕が大風呂敷広げたもので、それは議論の核ではないし、夏井さんと議論するときにも提示していません』と言われてしまった(考えの背景として存在している(背景として存在しないと、同性愛者排除というコンセンサスがあっても同性愛者を差別するつもりはない、という岡部氏の発言に説明がつかない)のに提示されなかったことこそが問題で、もし提示されていればそこを争点として議論が成立し得たのではないか、というのが私の考えだったのだが)。
また『①(言論、思想の自由を大切にしたいという考え――和間による追記)、②(二次元児童ポルノを排除したいという考え――和間による追記)はトートロジー(同語反復?――和間による追記)』であり『この「争点」のどちらが論理的に正しいか?というのが間違い』だ、とも言われてしまった。

つまりここが私と岡部氏の違いで、岡部氏が『この「争点」』について『争うことが原理的に不可能』としているのに対し、私は議論が成立するし妥協点も見出し得るかもしれないものだと考えている(つまり、「争点について議論が成り立つかどうか」が争点になっている)わけだ。

・三回目の発言と回答

二回目に対する岡部氏の返答によって、自分が何を言いたいのか私の中でははっきりした。
ならば次にすべきは、この言いたいこと(=児童ポルノの規制問題についても、賛成派と反対派の間で議論は成立する)を、説得力のある根拠と共に相手(岡部氏)に伝えることだ。

またこの時の返答では『コンセンサスとか潮流っていう概念が腑に落ちにくいのならば、レイシズム(人種差別――和間による追記)を例にとって考えてみてはいかがでしょうか?』というご提案も岡部氏からいただいていた。

よって「説得力のある(と私が考える)根拠」としては人種差別、それも説明のしやすさ(差別の根拠として「人種的に劣っている」という荒唐無稽なモノ,「ユダがユダヤ人」という事実であっても理由にならないモノの二種類を上げられる)から「ユダヤ人差別」を選択した。
論法としては、
1.ユダヤ人差別についてのコンセンサスが「賛成」から「反対」に遷移していく過程では、賛成派による「差別の根拠」の出鱈目さを反対派が論破する(つまり賛成派と反対派で検証,議論が行われる)、という場面もあったはずだ。
(2.より説得力を持たせるため、岡部さんが「排除は正当」と考えているヘイトスピーチについても「同様の議論は存在するはず」と触れる)
3.同じように児童ポルノ規制でも、「排除の根拠」について規制賛成派と規制反対派で検証,議論を行うことは可能なのではないか。
というものだ。

そして実際にツイートした内容が、


はい、この点をそのまま受け入れることには抵抗があります。コンセンサスとか潮流とか、あるいはそれによって成立する「多数決投票」というものを、私は無条件には信じられないのだと。
何故なら、過去に成立していたコンセンサスや潮流の中には、現在の価値感では決して受け入れないものである場合がかなりあるからです。
たとえば「同性愛者に対する嫌悪,排除の情熱」あるいは「ユダヤ人に対する嫌悪,排除の情熱」というどう考えても正当化できないようなものすら、ある時代,ある地域では人々の間で広く共有され、それに基づく差別が行われていました。
そういったことを考えれば、「現在世界的に成立している潮流」についても、そのような潮流があるから正しい、とは決して言い切れないと思います。
ただそれと同時に、人種差別だとか同性愛者差別だとかいったものを現在は(ある程度ではあっても)克服できているのも事実です。 これについては、「今は偶々そういう潮流が存在するだけ(未来には潮流が変るかも)」ではなく、必然的なものであると私も思っています。
そして同時に、「存在していた差別や排除」の根拠の検証が、新たな潮流を形成する一助になったのではないか、とも考えています(だからこそ児童ポルノについても、『「争点」のどちらが論理的に正しいか?というのが間違い』だという岡部さんの意見に納得できないんです)。
たとえばユダヤ人差別の場合(あくまで例として挙げるのであって、差別を助長する意図はありません、念のため)、これが蔓延していた時代には「ユダヤ人は拒絶しよう」というコンセンサスが存在し、
同時に「排除」することが正当であるという根拠(「ユダヤ人は人種的に劣っているから」とか「キリストを裏切ったイスカリオテのユダユダヤ人だったから」とか) も「その時代の多くの人々」に共有されていました。
だから「差別」と「反差別」が対立した場合、この「差別の根拠」は命題となり、それが論理的に正しいのかどうかが議論の争点となります。
ユダヤ人差別の場合は、根拠に論理的正しさなど勿論ないわけで、検証すれば(その検証が正しく行われれば)「人種に優劣なんてないよね」「いや、2000年も前のことは理由にならないでしょ」と根拠は否定されます。
そしてこの検証の結果を受けて「差別はよくない」という新たなコンセンサスが成立しているというのが、現在の状況の一側面だと思っています (多分に単純化や論理重視が過ぎている部分はありますが)。
またこれは、逆に排除が成立する場合でも言えることだと思います。 たとえば例として挙げられていたヘイトスピーチの場合(この件については全然詳しくないので想像になりますが)、
まずヘイトスピーチがまかり通っている状況があり、それに対して「●●だから」という根拠に基づく「ヘイトスピーチ規制論」が発生する。そして「●●だから」という根拠の検証が行われ、それが論理的に正しいものとみなされた結果「スピーチ規制」というコンセンサスが成立する
つまりコンセンサスの有無やベクトルの方向は結果として生じるものでしかなく、大切なのは「それを支える根拠の検証」が上手く行われているかどうかだと。
だとすれば児童ポルノの場合でも、「規制すべき」という主張には、「なぜなら●●だから」という根拠があるのではないか、そしてこの根拠を検証することで、規制派と規制反対派にも分かりあう余地があるのではないのか
(たとえば検証の結果、根拠に誤りがあるという結論が出れば規制反対派に鞍替えする規制派もいるだろうし、逆に根拠が真だという結論が出れば規制派に意見を変える規制反対派もいるかもしれない)
と考えるのですが、この検証の対象となり得るような「二次元児童ポルノを規制すべきである根拠」というのは絶対にありえないのでしょうか。
と、ここまで書いて思い付いたのですが、 岡部さんの考えている「規制の根拠」って「ペドフェリアは(たとえその欲望が向いているのが二次元であっても)病気であり、天然痘などと同様撲滅すべき対象であるから」というモノじゃありませんか?
(いえ、最後のツイートは岡部さんと夏井さんのやりとりを読んだ私の思い付きなので、的外れであれば一笑していただいて構いません)。


……だから長いって!

長くなった理由としては、
・『コンセンサス云々』をマクラとして付けたが、それが思いのほか引き摺ってしまった。
・誤解を招かぬようアナが無いよう、と考えた結果、具体例についてグダグダと書き過ぎた。
・失礼の内容丁寧な文章を心がけたつもりが、単に言い回しが回りくどいだけになった
・ツイッタ―なのにブログ記事を書くノリで書いていた
・最後に思い付きを加えてしまった

など色々あるのだが――
ともかく長々と送り付けてしまい、岡部さん申し訳ありませんでした。

ツイッタ―はブログとは違うし、特に「返信」で送る場合は他者にも迷惑を掛けるのだから、もう少しそこのところをよく認識しておくべきだった。要反省である。

ともかくこれに対する返答として、岡部氏からは
『端的にお伺いしますが、ヘイトスピーチ規制が正しくて、児童ポルノ(二次元)規制が正しくない理由を、論理的に教えて下さい。』と言われてしまった。


・次の発言についての検討

つまりまた誤解されてしまったようだ。言いたかったのは
「賛成派と反対派の間で議論は成立するのではないか」
ということで、この議論の結果である「規制が正しい」「正しくない」については触れていないつもりだったのだが――だとすればまずは絶対に、この誤解から解かなくてはならない。
とすると書くべきことは、

・誤解であることを言う。
・要求された『ヘイトスピーチ規制が正しくて、児童ポルノ(二次元)規制が正しくない理由』は提示できない,しても意味がないことを、理由と合わせて言う
 理由:正しい,正しくないは「議論の結果として出される合意点」であるべきと私は考えているので、その議論をしていない段階ではまだ「正しいのか正しくないのか分からない状況(これはヘイトスピーチ規制でも児童ポルノ規制でも同じ)だから。
・同時に前回の私の発言では、「ヘイトスピーチ規制→正しい、児童ポルノ規制→正しくない」ではなく「ヘイトスピーチ規制+児童ポルノ規制→どちらも正しいかどうか議論が行える」という構図だったことを示す。
・上記の「議論が行えるかどうか」について岡部氏と私の間に意見相違が存在するので、その相違点について検証を行いたいという意思を示す。

といったところだろうか。
これをツイートとして整理して、

返答が遅れ申し訳ありません。また、文が稚拙で岡部さんの誤解を招いてしまっていたようです。その誤解の解消もかねて、以下3ツイートで纏めたつもりです。

私が言おうとしたのは「賛成派と反対派でも、お互いの主張を検証,議論して合意点を探れるはずだ」ということで、議論した結果である合意点(正しいかどうか)には触れていないつもりでした(∵まだ議論していないから)。

ヘイスピ規制派の根拠→ヘイト対象を傷付けるから規制すべき(この論点は、規制派と規制反対派で検証,議論可能)。同様に児ポ規制派の根拠→児童を傷付けるから規制すべき(この論点は、規制派と規制反対派で検証,議論可能)、と思ってたのですが、

児ポ規制は憎悪によって行われていて、その正しさは争えない,議論できないと岡部さんは言われる。だからその「児ポ規制の正しさ」をよく知って、それを賛成派と反対派で議論することが本当に不可能なのか確かめたかったんです。

を投下してみよう。


・今後のやりとりについての検討

私の発言に対する岡部氏の予想される反応は、
「原理原則の正しさは論理的に争えない、コンセンサスで決めるしかない」
というものだ。だがこの考え方は、
「同性愛者差別がコンセンサスを得ている状況が発生しても、同性愛者差別を行うことにはならない」
という岡部氏自身の発言と矛盾する。この点を指摘することで、岡部氏が「同性愛者差別を行わない」という理由、
『大風呂敷を広げれば、性的マイノリティへの理解やペド嫌悪(児童保護)は、霊的進化のベクトルに一致すると思う』,『その一方向ベクトルを認識しているのでそれはありえません。』
に話を戻したい。

この『性的マイノリティへの理解やペド嫌悪(児童保護)』が『霊的進化のベクトルに一致する』、つまり正しいものだ、というのは、時代の潮流やコンセンサスとは独立した岡部氏自身の価値感であるはずなのだ(でなくては、「同性愛者差別がコンセンサスを得ている状況」でも彼が同性愛者差別を行わない理由に説明がつかない)。岡部氏にとっては当たり前すぎて意識していないのかもしれないが、氏の「同性愛者は排除しない」「ペドフェリアは排除する」という選択はこの価値観に沿ったものであると予想される。

そしてこの価値観についてならば、議論,検証は当然成立するのではないか。
たとえば同性愛に対する寛容が進んだ原因の一つは、同性愛に関係している性同一性障害について、理解が進んだことだったはずだ。この理解は医学的,科学的なものなのだから、当然再検証は可能だろう。同様のことは、ペドフェリアの理解(それが病気だ、という理解も含めて)についても言えるはずだ。

*1:以下の記述では、纏めやツイッタ―から引用したものについては『』で括って表示している。他人のツイートそのものを表示させて問題ないのかはよくわからないのでいったん保留、もし問題ないのであればツイートの表示も行うように変更するかもしれない